会議という幻想:その「場」に価値はあるのか?
そもそも、会議って必要なんですか?
はい、ということでですね、「ファシリテーション超入門」とかいう本を読んでまず思ったのは、「それって、会議しないといけない理由ってあります?」って話なんですよ。要は、会議って「話し合いの場」ってことでありがたがられてますけど、たいていの場合って、決まってないことを長引かせたり、責任の所在をあやふやにしたり、要するに「何も決まらないことを決める」ための儀式みたいになってることが多いんですよね。
この本の中ではOARRっていうフレームワークが紹介されてて、Outcome(目的)、Agenda(議題)、Role(役割)、Rule(ルール)を事前に明確にしようって話なんですけど、逆に言えば、こういうことを明確にしないとまともに機能しないのが会議だっていうことでもあるんですよ。つまり、事前準備とルールがないと成り立たない会話って、それ本当に「自然な議論」なんですか?って疑問が湧くんですよね。
「発散と収束」って、ただの迷走では?
あと、「発散と収束」っていう会議の進行プロセスが紹介されてるんですけど、発散っていうのは要するに、思いつきをとりあえず言ってみるタイムなんですよね。でも、それって裏を返すと、何も考えてなくても発言していい時間、ってことでもあるわけで。で、収束は収束で「じゃあどうする?」って方向性を決めるわけですけど、結局その発散のフェーズで出た玉石混交のアイデアのうち、玉をどう見分けるかって話がスルーされがちなんですよ。
みんなでアイデア出して、雰囲気よくして、それっぽい方向性を「合意形成」したつもりになって、じゃあ誰がやるの?って言ったら「うーん、それはまた今度の会議で…」みたいな。発散して、収束しなくて、また発散してるだけじゃないの?っていう構造が、実は会議の多くを支配してるんじゃないかと思います。
心理的安全性という名の「お伺い文化」
本音を言わないことの合理化
「心理的安全性を確保しよう」っていう話もありますけど、これも聞こえはいいんですよね。意見が拒絶されない、批判されない、安全な空間を作りましょう、って。でもそれって、裏を返すと「誰も本音を言わないし、誰も責任を取らない」っていう空間になりがちなんですよ。
たとえば、「どんな意見でも歓迎です」って言っても、実際には「上司の顔色を見ながら話す」っていう空気が支配してるわけで。そうなると、言ってもムダだなって思う人は黙るし、空気を読むのが上手い人が「正解っぽいこと」を言ってそれで終わりなんですよ。
要は、心理的安全性って「意見を言っても大丈夫ですよ」っていう形だけ整えてるけど、実際に「本音を言うと変な空気になる」っていう現実は変わってないんですよね。だからこそ、「それって本当に安全なんですか?」って問い直すべきなんじゃないかと思います。
アンコンシャスバイアスって便利な逃げ道
あと、「無意識の偏見」ってやつ。アンコンシャスバイアスって言葉、最近やたら出てきますけど、要するに「無意識だから責任取りませんよ」っていう言い訳に使われがちなんですよね。偏見があるかもしれないから気をつけましょう、っていうのは正論っぽく聞こえるけど、それって「何か問題が起きても、私のせいじゃありません、無意識だったので」っていう免罪符になり得るんですよ。
女性が発言しづらいとか、若手が声を上げにくいとか、それを「構造的な問題」として捉えるならまだしも、「無意識だったので」で済ませるのは、実は問題から目をそらしてるだけなんですよね。だから、「無意識だから仕方ないよね」で終わらせずに、「無意識の行動の結果は誰が責任取るの?」ってところに踏み込まないと、意味ないんじゃないですかね。
「見える化」の誤解とホワイトボード信仰
視覚的な情報ってそんなに万能?
この本でやたら推してる「見える化」、つまりホワイトボードやデジタルツールで会議内容を可視化するってやつなんですけど、それって本当に機能してますか?っていう疑問があるんですよね。たしかに、情報がどこにあるかわからないよりは、視覚的に整理されてる方がマシなんですけど、それって「中身がちゃんとしてること」が前提なんですよ。
中身が薄っぺらいまま、ホワイトボードに「課題」「目標」「解決策」みたいにキレイに書いても、それってただの文字の羅列でしかないんですよね。むしろ、「見える化」されてることで、あたかも何か進んでるような錯覚を生む危険すらあるわけで。要は、「見えてる」ってだけで「理解してる」わけじゃないんですよ。
ホワイトボードは魔法の道具じゃない
ホワイトボードに書いたからって、会議がうまくいく保証はどこにもないんですよ。むしろ、ホワイトボードに頼るあまり、「書く人の手が止まったら議論も止まる」みたいな変な依存関係が生まれることもあるわけで。しかも、書かれる内容って往々にして「目立つ意見」や「声の大きい人の発言」になりがちなんですよね。
それって、結果的に「見える化」で本当に見えるべきだったはずの「マイナーな視点」や「ちょっと変わった意見」が消されることにもつながるわけで。だからこそ、「見える化」が機能してるかどうかを確認するには、「見えてないものに目を向けられてるか?」って視点が必要なんじゃないかなと思います。
ファシリタティブ・リーダーシップの限界と幻想
リーダーは調整役でいいのか?
本書では「ファシリタティブ・リーダーシップ」っていう概念が出てきますけど、要は「みんなの意見を尊重して、うまくまとめてくれる人」っていう理想像なんですよね。でも、これって現実的に考えると、リーダーの仕事を「調整役」に限定してるような気がしていて、それって本当にリーダーなんですか?って話になるんですよ。
たとえば、会議で意見が割れました。Aさんは「コストを重視」、Bさんは「スピードを重視」。で、ファシリタティブ・リーダーは「両者のバランスを取って話をまとめる」みたいな方向に行くわけですけど、実際には「バランスを取ったことで、誰にも責任が取れない中途半端な案」が採用される、みたいなことも多いんですよね。
だから、「意見の背景を共有して、合意形成を進める」っていうのは綺麗な言葉ですけど、現実は「誰にも嫌われない無難な意見を通す」っていうだけのリーダーが増えかねないわけで。それ、本当にリーダーの役割なんですか?っていう疑問が残るんですよ。
「みんなで決めた」は誰も責任を取らない
会議でよくあるのが、「みんなで決めたから」という免罪符を作る構造ですね。これ、責任の所在をあいまいにする最強のロジックで、「結果がうまくいかなくても、誰も悪くない」という状態を作るんですよ。で、ファシリテーターも「うまく進行できた」とか自画自賛するんですけど、そもそも中身が微妙だったら、その進行って意味あるの?って話です。
だから、リーダーがファシリテーションに逃げて、判断を先送りにする場面って増えてると思うんですよ。要するに「合意形成しました」と言えば、責任から逃げられるわけですから。
公平性という名の「形式的平等」
発言機会の平等は、発言内容の平等ではない
公平性の確保っていうのも、聞こえはいいんですよ。全員に意見を言うチャンスを与えましょうってことなんですけど、実際のところ「全員に話を振る=会議が良くなる」ってわけじゃないですよね。だって、全員が常に有益な意見を持ってるわけじゃないし、「意見を持ってない人に無理やりしゃべらせる」こと自体が逆に時間の無駄だったりもするわけで。
もちろん、意見を言いたいのに言えない人がいるなら、それをフォローするのは必要ですけど、「とりあえず全員に均等にしゃべらせる」っていうのは、効率の観点からするとかなり無駄が多いんですよね。要は、「しゃべること」自体が目的になっちゃってる。
公平性って「扱いを同じにすること」じゃなくて、「それぞれの状況に応じて適切な対応をすること」だと思うんですよ。だから、「みんなに一律に発言させる」ことがフェアだとは限らないわけです。
アイスブレイクの効果は幻想?
会議の冒頭にアイスブレイクを入れましょうっていうアドバイスもありますけど、これも使い方を間違えると、ただの「雑談タイム」になって終わることが多いんですよね。たとえば、「最近見た映画は?」とか、「週末何してましたか?」みたいな話をして場を和ませるっていうのはわかるんですけど、それって結局、会議の中身と関係ないし、全員がリラックスできるとも限らない。
むしろ、無理やり話させられて「何か面白いこと言わなきゃいけない」っていうプレッシャーになることすらあるんですよ。だから、アイスブレイクって「やれば効果が出る」って思われがちだけど、実は逆効果になるケースも少なくないわけで。要は、「慣れてる人」には効果があっても、「緊張してる人」にとってはむしろ苦痛なんですよね。
時間術と振り返りのトラップ
時間配分は「削る技術」じゃない
時間配分を守りましょうってのもよく言われますけど、これも結局「中身のない話を時間通りに進めるだけ」になってないですか?って話なんですよ。つまり、時間通りに終わる会議=良い会議、みたいな発想になると、本当に大事な部分を削ったり、無理やりまとめたりするリスクが出てくるんですよ。
時間を守るのは当然なんですけど、だからといって「言いたいことを我慢する」場になるんだったら、それって本末転倒じゃないですかね。むしろ、「この会議は何のためにやってるのか」っていう目的意識がないと、時間配分なんて意味をなさないんですよ。
フィードバック文化という自己満足
会議の後にフィードバックを取りましょうっていう話もありますけど、これも形骸化しがちなんですよね。「今回の会議どうでしたか?」って聞かれて、「良かったです」とか「もう少し時間が欲しかったです」とか、そんなのばっかりで、実際に改善につながるような意見ってあんまり出ない。
で、出たとしても「次回に活かします」って言って終わり。実際には何も変わってない、みたいなケースがほとんどなんですよ。つまり、フィードバックって「やってる感」を出すためのツールになってることが多くて、本質的な改善にはなかなかつながってないわけです。
結局のところ、「反省してるからOK」みたいな日本的な文化が根底にある気がしてて、反省よりも「実際に何が変わったか」の方が大事なんじゃないですかね。
会議とは何か、もう一度問い直す
「会議=価値を生む場」という思い込み
この本に書かれてるようなノウハウって、たしかに理にかなってるし、実際に役立つことも多いと思うんですよ。でも、それ以前に「なぜ会議をやるのか」「この会議は本当に必要か」っていう根本的な問いがすっぽり抜け落ちてる気がするんですよね。
たとえば、SlackやNotionみたいなツールがあれば、わざわざ集まらなくても情報共有や意思決定はできるわけで、それでも「みんなで話す」ことに意味があるのかどうか。それを考えないまま、「会議のやり方を上手くしよう」とか、「心理的安全性を高めよう」とか言っても、それって「壊れた自転車のサドルを磨いてる」ようなもので、根本が直ってないんですよ。
成果を出すために必要なこと
結局のところ、「成果を出す会議」っていうのは、「何を目的に、誰が何を決めて、どう動くのか」が明確であることが重要なんですよ。形式とかツールとか空気感も大事ですけど、それ以前に「会議でしかできないことがあるのか?」っていう視点を持たないと、ただの時間の浪費になる。
なので、この本に書かれてるテクニックを鵜呑みにするんじゃなくて、「会議をしないという選択肢はないのか?」とか、「この会議に自分が出る意味はあるのか?」っていう根本的な問いを常に持っておくことが、一番効率的で、本質的な会議術なんじゃないかと思います。
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